瑞厳寺は、伊達政宗の遺命により造営された霊屋(おたまや)。 桃山文化を伝える豪華絢爛な建物であり、1931年(昭和6年)に国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)焼失し、現在の建物は1979年(昭和54年)に再建されたもの。 写真一番下が、瑞鳳殿を外側から、真ん中は、正面から見たところで、一番上は、ひさしの部分。 江戸時代の権力者だからこそ造れた豪華な建物。 政宗は、このように今でも後世の人々が見て、自分の事を偲んでくれるという事を想定して造ったのであろうか? 人間亡くなれば、いずれ忘れ去られ、まるで無かったと同じようになるのに。
五大堂は、同じ松島にある臨済宗妙心寺派の寺院・瑞巌寺の境外の仏堂。 瑞巌寺が海岸から少し中に入ったところにあるのに対して五大堂は、海岸を臨む小島に建つ。 807年坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされるが、現存するのは、1604年に政宗が造営したもの。 東北地方最古の桃山建築で1950年(昭和25年)に国宝に指定された。 今は、松島の風景と一体となり、観光の柱の一つとなっている。 自然が造った美しさと人が造った建物の美しさが融合してこの松島の名声を一層確かなものにしたのだろう。
一関の北東20kmのところに位置する。 日本百景の一つに数えられ、砂鉄川の浸食で高さ100mの絶壁がそびえ立つ。 「舟下り」は船頭が棹一本で約1時間で往復する。 写真の一番上は、船乗り場の入口、一番下の左の写真は終点にある洞穴。 他は、途中の風景。 コロナ発生以前の旅ゆえ、船には、20人位が乗船したが、隣の人との「Socieal Distance]など気にもしなかった。 こんな些細なことも不自由でないときは、何とも思わなかったが、一旦規制されると、コロナ前は良かったなぁと改めて思い知らされます。 何も困らないという時は如何に大事な時で、幸せで貴重な時なのだ。
誰でも知っている中尊寺。 奥州藤原氏三代ゆかりの寺であり、平安時代の芸術品あり、国の特別史跡は当然であり、2011年(平成23年)世界遺産にも登録された。 生憎、小雨が降る平日であったが、かなりの人が参拝にきていた。 金色堂は、当然、写真のように金色の屋根の前までは入れるが、中には入れないので、天井の前側の内側は分からない。 この外から見えない部分を撮影したものを10年位前にテレビで放映していた。 その時の記憶では、見えない所といえども、精緻に造られていた。
さすが日本人である。 見えなくても手を抜かない。 私たちは先祖からして誠実な人種であるのだ。
鉱脈型銅鉱床とよばれる鉱山で、その発見は奈良時代と伝えられる。 尾去沢鉱山で発掘された金があの中尊寺の黄金文化に貢献したとの事。 1978年(昭和53年)に閉山し、今は史跡のテーマパークとなっている。 これだけ歴史のある鉱山になると、その陰にはいろいろな事件があるようだ。 明治初期には尾去沢汚職事件があり、1936年には、鉱石から金属を取り出した後の泥を貯めたダムが決壊し、下流の住民361人が亡くなっている。 閉山後も鉱山跡から鉛を含む排水が下流の大館市の水道水に使われるため、その処理に係る補助金に絡む不正があったという。 鉱山の歴史にも世の中に貢献した表の顔と併せて暗い闇の部分がある。
十和田湖は、青森県と秋田県にまたがり、北には八甲田山があり、十和田湖の東側から奥入瀬川に水が流れている。奥入瀬川はそこから北東方向に横たわっている。 1936年に奥入瀬渓流、八甲田火山群と共に十和田八幡国立公園に指定。 十和田湖は学校の地理で習い、誰でも知っている景勝地だあるが、東海地方に住む身にとっては行きたくても中々いけない所である。 私も約50年も前に一度行っただけである。 観光地というのは、京都のように人が常に集まるところもあれば、十和田湖のように一度に多くの人が集まる事がないところもある。 十和田湖に京都のように人が集まったら、たちまち自然が破壊され、その魅力が失われてしまう。 今のままがいい。
十和田湖の東岸から東北の方向に流れ、焼山までの14kmをいう。 渓流には多くの滝があり、渓流に沿ってある遊歩道を歩いて眺める景色が最高。 ツアーで観光対象になり、人気があるスポットである。 今回の旅行でも最も行きたいところの一つ。 でも、当日は小雨が降って傘を差しながらの散策。 理想を言えば、紅葉の時期で、すがすがしい秋日和であれば……と思うが、それは贅沢。 無事にここに来られた事だけで感謝しなくては!!
青森市南方の山中にある強い酸性の温泉地。 300年の歴史を誇り、総ヒバ造りの「千人風呂」は有名。 混浴になっているが、男女別々の脱衣場から浴槽に入れるが、女性の殆どは混浴になる手前の浴槽でとどまり、混浴のところ迄は来ない。 残念!!! 湯治場の色が濃く、建物はでかいが、質素であり、部屋の暖房は石油暖房機だけで、厳寒の時期は寒いのではないかと思う。 写真は上から千人風呂、食堂、部屋、廊下、風呂の入口、玄関である。 食事も意外と質素で味付けはどちらかというと旨くない。 でも、ここは後に訪れる銀山温泉と同じ一番期待したところ。 温泉といっても、下呂、熱海と違って華やかさはないが、昔の日本を思い出させるようなエキゾチックな雰囲気がある。 案の定、旅行後一年経った今でも、強く印象に残っている。
岩手県の八戸と宮古の中間にあり、太平洋を望む岸壁。 高さ200mの断崖に、奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟といった目を見張る海岸線が8kmも続く。 全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で最高ランクの特A級に格付けされた景勝地。 写真は、その景色だが、真ん中の写真は違います。 これは北山崎から内陸の方に行った山の上から見た「三陸鉄道」の電車。 「三陸鉄道」はあの東日本大震災でレールが酷く破壊された。 テレビで悲惨な姿をよく見ていたから、電車が颯爽と走っている姿を見るとなんだか嬉しくなる。
北山崎から海岸沿いに22km南に走ったところにある。 真ん中の写真のように展望台から北を望めば、弓状にえぐられた高さ200mの岸壁が屏風のように5列に連なる様を展望できる。 「鵜の巣断崖」の名は崖の中腹にウミウの巣があることから由来するという。 晴れた日であり、穏やかな波が海岸を打つ姿を見ているとなんだか世の中の雑踏から無縁の世界に入り、心が落ち着く。 こういうところに精神疾患のある方を連れてくると、療養に効果があるように思う。
宮古市の近くにある世俗と離れた別世界。 5200万年前に形成された火山岩からなる白い岩塊と白い小石からなり、外海と隔てられた波穏やかな清明な入り江。 海と壁のように立つ岩塊との間にある浜辺に立つと、「さながら極楽浄土」と1600年代に、和尚が感嘆したといわれる気持がよく分かる。 リアス式海岸である三陸海岸沿いは、「北山崎」、「鵜の巣断崖」、「浄土ヶ浜」といったホントに絶景が繋がり、観光する者にとって自然の美しさを満喫できるところだ。 今回の旅行で、景色のいいところで一カ所だけ推薦せよといわれるなら、この浄土ヶ浜を推薦する。
浄土ヶ浜に近いし、ビジネスホテルに泊まって夕食はその土地の居酒屋で摂るのを楽しみにこの街を選んだ。 駅前のホテルであり、近辺の居酒屋を探したが、徒歩で探す範囲では1軒しか見当たらなかった。
残念ながら、名古屋でよく行くような割安の居酒屋ではなく、料理の値段は私にとって高額であった。
名古屋のような大きな街では店も多く競争が厳しいので、割安の店もあるのだが、宮古市の大きさの街ではそうもいかないのかもしれない。 この土地に住む人は気軽に居酒屋に行けないのではと勝手に解釈した
岩手県の県庁所在地で、南部氏が造った盛岡城の城下町。 写真は上から、岩手銀行赤レンガ館外観、その内部、啄木・賢治青春館 これらの施設は市の中心にある盛岡城跡公園の近くに散在する。 市内の観光は、地理不案内でもあるので、「でんでんむし」という都心循環バスを利用した。 初めて来た盛岡市の印象は、適当な賑わいがあり、綺麗に整備された街で好感が持てる。 住んでみると、石川啄木や宮沢賢治の気持が分かるのかもしれない。
山形県尾花沢市の山の中にある。ここに着くまでの道は何もない田畑をひたすら走る。すると突然、賑やかな景色が広がるが、その規模は小さい。 足利幕府時代に銀採掘が始まったのがきっかけで、湯治場として栄えたが、1913年に大洪水で壊滅した。 地元財界が復興し、現在の温泉街ができたという。 写真で分かるように、近代的な温泉街と違って、昔の日本の風情を思い出させるような、たたずまいである。 連続テレビ小説「おしん」などテレビで見ていたので是非行ってみたいと願っていたところ。 このようなな古い様式の建物を維持するのは大変だろうと思う。 そして火災に対する対応も並の対策では不十分ではと懸念される。 テレビには映らないが、数軒廃業したと思われる建物があった。
松島に戻ってきたが、今度はフェリーに乗って島々を見る事とした。 260もの島があるそうだが、フェリーで回るのはせいぜい20くらい。 お陰様で今回の旅行で、船の中と、山の上と両方から松島を堪能することができた。 私の人生で再びここを訪れることはないと思うが、いずれ子供が、そして孫が来るかもしれない。 その時、私たちを暖かく迎えてくれたように、 この美しい景色や、美味しい料理が迎えてくれる事を願っている。 二度とあの大震災がこない事を!!